母と子の関係

とある友人に会った時の会話。
3人の子がいてそのうちの上2人とのうまくいってない様子をお話しに。
自分の財産はあの2人には一文もやりたくない、3番目にだけ譲りたいと思って今色々画策している、と言う。一緒に暮らしているのも(その、気が合う)3番目だけとだ。

笑ってしまった。

子供それぞれが母親と向くような関係だと兄弟姉妹間で嫉妬がうまれると私は思っている。
私の育った家庭がそうだった。母親のお気に召すように動くことで母の関心をひける。
そうでない時は母からの愛情がないように感じられ、贔屓されてる(と思い込む)兄弟姉妹を憎らしく思う。その時その時によって母は言葉巧みに子供を使い分ける。
いい学校に行ったら誇らしげに学校へ。いい就職先に勤めたらまわりに吹聴。いい学校に行った孫の運動会だけに行きたがる(選別には彼女なりのもっともらしい言い訳がつく)。

自分が親になってよくわかった。
自分はどうでもいいのだ、子供同士がいがみ合わず、子供と夫が良好な関係を築けるのであれば私は鬼と呼ばれても構わない。

幸い、我が家はそうなった。兄弟仲良く、夫とも良好な関係である。

母ととてもとても性格がにている妹一家は、兄弟姉妹の中がよろしくない。父親との関係もよくないらしい。それを妹はすべてつれあいのせいだと思っている。なかなかに母によく似た性格の妹である。 こどもたち皆、私とはうまくやれるんだけれどねえ、とため息をつく。
いちばん可愛がられてた末っ子のあなたにはわかるまい。あなたの家庭はかつてのわたしたちの家庭にそっくりだ。あなたのこどもへの接し方はあなたの母親そっくりだ。

でも、教えてあげない。

お正月の挨拶

父が亡くなって8ヶ月。相続手続きのために実家に行かなければいけない時は仕方なく行ったが、それ以外は実家に足を向けず。特に私に暴言をはいた妹と母が一緒にいる時は絶対に同じ場所にとどまらずにやってきた。
母が私を疎ましく思ったのだ。母が私を遠ざけたのだ。今更行く理由もない。

さて、私は姉妹ばかりの家族構成だったので、姉妹は皆、お正月はまず配偶者の方の実家詣を優先する。元旦に誰も訪れないお正月はつまらないだろうと結婚当初は双方の親を招いてあげていた。義母はもう亡くなっていたのであちらは義父だけ。私の方は両親。何を勘違いするのか母はしきりにお手製の料理を義父に振る舞いたがった。おいしいですねと言われ大喜び。父が「おいしい」「おいしくない」を言わずに黙々と食する人だったので「おいしい」と言われて有頂天になってる様を見るのは当時からあまり気持ちのいいものではなかった。だって、私もちゃんと作るしね。招待してるのにお手製のものをガンガン持ってくる人って配慮に欠ける。

途中からそれ(双方の親を我が家に招待する)をやらなくなって。でもまあ実家は両親揃っていたので2人で迎えるお正月というのをずっと続けていたわけだ。 私はおせちの中の決まったものをいくつか作る習慣があったのでそれのおすそわけというのをずっとやっていた。市販のものに入っていない品だったからまあ、かぶることもないだろうということで1回で食べ切る量を。

今年。言いなりになって動いてくれる妹も、お正月は義実家優先。4日も5日も帰ってこない。関係がよければ「お正月、うちにくる?」と誘ってあげるところだ。徒歩圏だし。
しかし私は母の印象操作によって家族全員から悪人のように思われ孤立してきた身。
だれが今更。

夫は私がどういう仕打ちをされてきたか聞かせたので知っている、なので、私を誘わない。1人で挨拶に行ってくると言う。なので、例年と同じおせちの中で作ったものを容器に入れ持って行ってもらった。

LINEでメッセージが来た。やり取りの後2つ目に来たメッセージでは、大勢でいただく食事は楽しいですが黙っていただくことは不自然だとわかってきました、と書かれていた。

徒歩圏だしね、関係がよければお食事くらい一緒にいかが?とお誘いするところなんですよ。
人を傷つけた側は、傷つけたことに対して鈍感なのである。

そのメッセージに対しては返信しなかった。

振袖

20歳の思い出、成人式。私には成人式の思い出がない。
学校が私立で地元の成人式式典に行っても知り合いがいないという理由もある。
1週間後には試験が始まるという時期で試験勉強をしていたかな。15日にあるラグビーの試合を見ていた記憶もある。
私は四姉妹の3番目。姉2人も振袖は着なかった。つまり我が家では振袖の用意がされなかった、ということなのだ。そして誰も成人式の式典に出席していない。

姉妹の誰か、振袖を着たい!と親に言ったのか。誰も着たいと思わなかったのか。
私は着たかった。が、着たいと親に言うことはなかったし親から打診されもしなかった。
最初に買った着物は二十代の時に自分の稼ぎで買った加賀友禅の訪問着だ。50万ちょっと。

長姉は借りた振袖ではあるが姪に着せてあげ写真を撮った。障害のある姪だから振袖はその1回きりだと割り切ったのだろう。よく似合っていた。
次姉のところは女の子一人だが、その姪に振袖を買ってあげたと聞いている。後になって写真を見せてもらった。

私は私のパート代で娘に振袖を買った。小物も合わせると150万くらいしたと思う。
最初、娘に「振袖どうする?」と聞いた時に「もったいないからレンタルでいい」と言われたけれど、買ってあげるよ、と言ったら何度かのやり取りの末遠慮がちにありがとうと言われ買うことに。
古都である某市の老舗の呉服屋さんへ連れて行き選ばせてあげた。一応予算は100万と伝えその中で選んでもらった。最終的に本人が気にいるものが100万ギリギリで見つけられた。

ところで、我が家はカトリックなので月曜の成人式式典の前日にも教会で成人のお祝いがある。2日続けて振袖を着ることになる。着付けとヘアセットのお値段も2倍だ。しかしそこで「教会は洋装で行って」と言うことはなかった。遠慮はされたけれど気にしなくていいよと伝えていた。 結局、彼女は2日続けて振袖を着ることになったのだった。

さて、あれから2年。先日の教会の委員会で今度の新成人のお祝いについて打ち合わせがあった関係で、家に帰ってきてから娘と話をした時のこと。
結局翌日の式典がメインだから2日続けて着るとお金も嵩むし着ない人もいるよね、と私が言いましたら、娘が「でも、教会で振袖で前に立ってお祝いしてもらうっていうのを小さい頃からずっと見ていてあれは憧れだった」とぼそっと。ああ、色々遠慮していた娘だったけれど、結局憧れはずっとあって、その憧れからの夢は私が叶えてあげることできたんだ。と、じわっときた。
私は一言「そっか、着物で出れてよかったね」と返しただけだったけれど、自分が親にしてもらえなかったことを自分は子供にしてあげられ、子供はそれを望んでいた事だった、その望みに気づいてあげられたんだ、という事実にじんわりできたのだった。

妬まれる

大人になってからのある日、姉から「昔、自分は親から可愛がられていないとひがみ、あなたに嫉妬していた」と言われた。

習い事への親の関わりの濃さ薄さでそれを感じていたという。
運動神経のいい姉は運動系の習い事、私は別の習い事をしていたんだけれどね。私自身は運動神経のいい姉が羨ましかったし、自分のほうが秀でているとは思えなかった。

姉は続けて「嫉妬してたから意地悪もずいぶんした。ごめん」とも言った。

その昔、家族ぐるみでつきあいある家の人たちがクリスマスにわが家へ来た時。プレゼントの交換会しようとなって、私たち子どもは親から多くはないお小遣いをもらってそれぞれプレゼントを選びにお店へ行った。そこに集まる人たちの喜ぶ顔を想像しながら選んだハードカバーの日記帳、かわいい絵が描いてあり鍵もついてた。

輪になってぐるぐるプレゼントをまわすあれ、ストップがかかったその時。
姉が手の中にあったプレゼントを開き大きな声で言い放った

「なにこれ!こんなもんいらない!」

 

その時誰か大人が彼女を諫めたのかな、もう覚えていない、自分にはなんのプレゼントだったかな、それも覚えていない。彼女が言い放ったそれは私が精いっぱい気持ちを込めて選んだプレゼント、それしか覚えていない。

人を傷つけるようなことを平気で言える、姉のことはずっとそう思っていた。
スポーツも進学先も就職先も、負けず嫌いの姉ならではの一流な選択、立派な結婚もしている姉です。

そして大人になって彼女の告白でわかったのです、彼女はその時のプレゼントが私が選んだものだとわかっていたうえで、私をうちのめすためにその一言を放ったのだと。

姉の思惑通り、私は何年も何十年もその傷を背負ったまま生きてきています。

姉妹の確執は、いろいろと形を変えて今でも私たちにまとわりつく。ある時はこの組み合わせで敵味方になり、また別の時には別の組み合わせで敵味方になる。

私たちを翻弄したのはいつも母だった。なにか起きた時に、いつも言葉巧みに「私はいつもあなたの味方よ」というそぶりをして他の誰かを売るのだ。聖書に出てくるユダのように。

自分の考えに相槌を打っただけの娘を売る。自分の考えがほかの家族に批判されたときに「だって〇〇がそう言ってたから」と言って自分の責任は回避し、娘を売るのだ。そうやって私は今まで何十年も姉妹から妬まれ疎まれてきた。

自分が母になってやっとわかった。
親というのは、たとえ自分が悪者になっても子ども同士が仲良く、夫と子どもたちが仲良くできるように立ち回るものなのではないか、と。
私の母は真逆の親だった。

自分のこと わが子のこと

履歴書に書くような経歴…主に学歴だが…だけを見るとまあまあ悪くはない自分である。

しかし「私」を自由記述であらわそうとすると

努力嫌い、明日できることは明日にまわすタイプ
たまに集中するときは過集中気味
友人関係に苦労する

迎合できない性格

こんなところか。

お医者様に診断されたこともないし誰かに指摘されたこともないのだが、ひそかに発達障害のグレー一歩手前だと思っている。グレーにも行きつかないから、性格でしょの一言で済まされそう。

うまれたわが子、娘はよく癇癪を起す子だった。生まれた時から育てにくいと感じる子だった。自分の中にある、ある特性をさらに少し煮詰め凝縮させたような気質の子だった。このころにはもう発達障害の特性が社会的に認知されていたので、私は「これかもしれない」と思うようになったのだ。

このころは、まだ、母との関係は悪くなかった。
私はよくある子育て初心者の娘と同じように、母にこのことを相談したのだった「お医者様の診断をうけてみようと思うんだけれど」

 



なに考えてるの?自分の子をわざわざ障害者に仕立てる親がどこにいるのよ!!

これが母の答えだった。
母は病気で半身不随になったり障がい者を抱えてがんばってる方とかのことをよく話題にしていた。気遣っているのだと思っていた。障害に理解ある慈悲深い人なのだと思っていた。しかしこのやりとりを通じてもう一度振り返った時、わかってしまったのだ。

母は、弱き人を気遣う自分でありたいだけで、弱き人として気遣われることは屈辱に思う人だったのだ。優位に立ちたい、見下されたくない、というだけの人だった。

そういえば昔から自慢話が多かった。
知り合いの方から「お母さまから聞いたわよ、すごいわね」と聞かされること多々。てっきり子供を愛する親ばか自慢なのかと思ってきたが、自分がすごいと言われたいがための自慢話の吹聴だったとするとすべて合点がいく。

人から憐れまれるような汚点はプロフィールに載せたくない、母。

自分が親になってみて、その後も、孫と接する母を見ながらいろいろ真実が見えてきてしまった。ああなりたいと思えることが何もない私の母。私の親業はすべて母を反面教師としての試行錯誤の連続だった。

 

私はわが子を障がい者に仕立てようとする、悪い親なのか。

 

結局私は娘を診断してもらうことはしなかった。もちろん心の片隅にその可能性はおきつつ、対人関係で苦労する娘のフォローにその後も振り回されることになるのだ。
いわゆる発達障害の二次障害的なものも思春期時代に発症した。
とはいえ、彼女の人生を通じて今まで療育を勧められることもなかったし、診察を勧められることもなかった。しかしずっと「おかしいと思った時点で療育をするのが彼女のためだったのか」と自問自答する、私なのであった。

父のことは好きだった(3)

前回の続き

救急搬送されたものの意識はあるという話だった。
私はお見舞いには行きたいけれど行かないと伝えた。
そして。その時に、姉から言われたのだ。

お父さんはあなたを頼りにしているのよ、だから顔を見せに行ってあげて。会いたがってるはずよ、と。


その連絡があったから、私は父の病室へ父に会いにいったのだ。
はじめて手を握った。はじめて頬に手をふれた。夫も一緒だった。わが子の就活でまずは一つ内定もらえたのよ、という話もできた。10分くらいして母が来たので私たちは帰った。

幸い、1週間もたたずにで退院できた。
退院したその足で、父は私に会いにきてくれた。でもその時は母がそばにきっちりついていた(あたりまえか)足慣らしの散歩にいくところだというので家にあがってとも言わず玄関先で少し会話しただけ。またね!と。

そこから数日後。夜に母から電話がきた。父が倒れたという電話。
母が頼りにしていた妹は遠方に出かけていたのだ。
私が父のところにたどりついたのと、私が頼んだ救急隊がついたのとほぼ同時。
父はもう息もしていなかったし、救急車が運んでくれた病院へあとから追っていくのが精いっぱい。先生に亡くなったという診断をお願いしたのは私だった。

 

姉も妹も、あとからやってきた。夜中には病院に全員揃い、そこから怒涛の葬儀準備がはじまった。泣く暇もない。悲しむ暇もない。地元に詳しいのは私と妹だけだからだ。

葬儀社に電話をいれ、深夜までバタバタして帰宅した、その翌朝。姉からLINEがきた。

 

前回少し父のことを世話しその後お役御免になった、そのあと。
姉が両親と会う機会あったらしく、母と妹のやり方に少し言いたいことがあった姉がそのことを話題に出し諫めたところ母は案の定腹をたてて席を立ち。

母がいなくなったところで父と姉とで話を続け、そこで、姉が「お父さんは誰に面倒みてもらいたいの?」と尋ねたところ、父が「mgfgmに面倒みてもらいたい」と答えた、と。理由が「mgfgmが一番冷静な判断を下せるから」だと。だからあなたがお父さんのために今動いてくれていることはお父さんの望みだと思う、と。

声をあげて泣いた。涙が止まらなかった。

実は1か月ほど前に偶然近所で父とすれ違ったのだった。ひさしぶり!と一通りの挨拶をした後、父に「今度ゆっくり話をしたいんだけど」と言われたのだ。でも父と話をするときにはいつでも母がそばにはりついていてどうせ険悪になることがわかってるので、その時に「またね!いつか機会があれば!」と気持ちのこもらない「またいつか」を父に投げつけてしまっていたのだ。その頃は当然お別れが近いなんて思ってなかったし、父が私を頼りたがっているなんていう姉からの報告もなかったから。

順序としては姉に「mgfgmにお願いしたい」と宣言した後の偶然の再会だったからきっと内容はそういうことだったのだろうと思うのだけれど、私は父のことが好きだったのに、父の「ゆっくり話したい」という願いに冷たい拒絶をしてしまったのだ。

後悔してもしきれない。好きな父を悲しませてしまったのだ。
自分が母に疎まれて父と疎遠になることは自分を納得させられたのだけれど、父を悲しませたのが自分だったという、この事実は一生消えない。

父のことは好きだった(2)

前回の続き

実家に足を向けなくなったが、対外的には「仲悪くない」振りができていた。
平静を装って、会えば母と話をすることもできていたし。
しかし自分から実家に行くことはしなくなった。

父のことは好きだったが、すれば母にもしないわけにはいかないので父の日とお誕生日のお祝いはしなくなった。ほかの姉妹は父にも母にもしていたようで、実家の玄関にはお祝いを手に満面の笑みの両親の写真がいくつも飾られていた。

その後、年齢相応に父が具合を悪くするようになって、母の言う通りに動く私の妹がもっぱら病院の付き添いやあれやこれやを請け負うようになっていた。

それが、彼女の都合が悪くなったある時に私にヘルプ要請が来て以来、しばらく私に要請が続くようになった。もちろん、私は父のことが好きだったので喜んで引き受けた。しかし母の価値観は相変わらず私には受け入れられないものが多かったのだ。

たとえば、自分が高血圧で父もそうだからとほぼ塩分ゼロの食事、しかし父の運動量はすごかったのだ。ゴルフや庭仕事で汗をかくことも多く塩分ゼロなど考えられない、半年の同居中でもこのことで言い合いになったほど。
私がいなくなった後もこれは続いていたのだが、具合悪い症状の一つがこの塩分不足によるものだったとあとで判明。医者に怒られて初めて受け入れた母。

そんなことがほかにも。自分の思い込みが絶対で父の意思などお構いなし、というやり方に私はまた疑問をおぼえ、関わるようになってまた母と対立するようになった。私としては父の体調のこと、父のやりたいようにさせてあげたら、というだけだったのだけれど、自分に歯向かう憎き存在、と母はまた思ったのだろう、妹に何か伝えたらしく、ある日、私と妹が言い合うことになった。

そして。私は、そこで妹にすごい口調で罵倒された。その時の妹は母の価値観に洗脳されているかのよう。宗教と一緒だ、同じ価値観の人に私の考えなど理解できるわけもない、私は黙って実家を去ることにした。2回目の破綻だ。

その時に階段の踊り場から顔を半分だけ出して私たち姉妹のやり取りを覗き見していた母のあの顔は決して忘れない。母によって姉妹仲も最悪にさせられたのだ。

相変わらず具合悪いままの父のことは心配だったがその後3か月一切連絡を取らなかった、父だけでなく、ほかの姉妹とも、だ。どうせまた悪者にされてることはわかっていたので。

そして、3か月後、関係悪くない姉から「父が心筋梗塞で救急搬送された」と連絡がきた。